過去・現在・未来が重なり合う時の王国、ヨルダン・ハシミテ王国
5月中旬、ヨルダン・ハシミテ王国を旅した。壮大な遺跡の中に立ち、先史時代から数千年の人類と文明の歴史に触れた。現在を生きる人々の豊かな暮らしとその未来も垣間見た。それは、ヨルダンは訪れる者の歴史と時間の感覚を研ぎ澄まし、中東との新たな出会いを生み出す魅力に満ちていることを知る体験となった。
文明のクロスロードを巡る、8日間・1200キロの陸路の旅
Day 1: アンマン、シタデル
アンマンのクイーンアリア国際空港は、規模感と快適性を兼ね備えた首都にふさわしい空港だ。ヨルダンは日本のパスポート保持者にビザ取得が不要で、入国手続きは驚くほどスムーズに完了した。フォトグラファーの大橋と私は、日本語を操るマイペースなガイドと寡黙なドライバーが待つワンボックスカーに乗り込み、8日間・約1200kmのロードトリップを始めた。
まず市内中心部のセントレジス・アンマンに向かった。道路は整備され、周囲の町並みには雑多な印象がない。中東の砂漠気候とアンマンの高地という立地のためだろう、摂氏25度前後の空気は心地よく乾いていた。
この地域は広く「中東」と括られがちだが、ヨルダンは地理と政治経済の面で独自の立ち位置にある。サウジアラビア、イラク、シリア、イスラエル、エジプトと国境を接しながらも、大国の間でバランスを保ち続け、それを国の安定や国際的な信頼につなげている。中東のどこかで紛争が起きると、日本を含む多くの国のジャーナリストや外交官がまずアンマンに到着し、そこを拠点にする。ヨルダンは「中東地域の安定のコーナーストーン」と呼ばれている。それは人々の日々の暮らしの安全にもつながり、旅人にとっても喜ばしい。
ガイドに促され、さっそく「シタデル」に向かった。市内中心部の城塞という説明だったが、到着して驚愕した。ヨルダンの歴史のすべてを包容し体現すると言っても過言ではない巨大な遺跡群だった。市街を見渡す丘の上に、紀元前6000年ごろの新石器時代の居住跡、ペルシャ領有の時代、ギリシア時代、東ローマ帝国(ビザンティン)時代、ウマイヤ朝(イスラム)などの遺跡が折り重なるように建っていた。石柱に直接触れることができるヘラクレス神殿は2世紀からそこに建っているという。シタデルはさまざまな時代の支配者が王宮や拠点を置いた地で、人が継続的に居住した痕跡が世界でもっとも長く残されているが、城塞内の多くはまだ未発掘だという。
そういえば今回の旅をサポートしてくれた東京のヨルダン大使館が教えてくれたSNS用のハッシュタグの筆頭は「#KingdomOfTime」だった。日本語で「時の王国」。それはヨルダンに先史時代からの時の流れを刻む遺跡や史跡が複層的に存在することを意味していた。ここは太古から周辺の大文明との交易のクロスロードで、数千年単位でさまざまなモノや人が通過・集積し、独自の文明をも生み出してきた土地なのだ。
Day 2: 古都サルト、イラク・アル・アミール、ヨルダン博物館
アンマン中心部から約30キロ北西にあるサルトに出向いた。アンマンとエルサレムを結ぶ街道沿いに古代から繁栄した街で、20世紀に入りアンマンの拡大に合わせて衰退した。現在は古くからの街並みが残り、人々が静かに暮らす古都として人気がある。街全体がユネスコの世界遺産に登録されている。日本のJICA(国際協力機構)の協力で整備された「サルト歴史博物館(アブ・ジャーベルの家)」では、19世紀末の建築物を使って近現代史や民族文化を紹介していた。ヨルダンでは文化的に女性の撮影は慎重にと言われていたが、大橋はさっそく本人から許諾を得て、女性職員を撮影していた。サルトは街全体が博物館と言われているが、そこに暮らし働く人の存在が欠かせない。
アンマンへの帰路、谷間の道を数キロ下り、イラク・アル・アミールに寄った。この村には紀元前3世紀から紀元前2世紀のヘレニズム(ギリシア)遺跡があり、その一部に触れ、内部を歩くことができる。ライオンを象った当時の彫刻が間近にあるのが信じられない。これが、この乾いた谷間にずっと建ち続けているのか。その事実にただ感嘆した。
ローカルコミュニティの拠点を訪れ、昼食として手作りのヨルダン料理を屋外のテーブルでゆったりと楽しんだ。そこは地元の女性によるスモールビジネスの興隆を目指す場所で、敷地内には陶芸や紙漉きなどの工房やワークショップが併設されていた。このような拠点は、一般的に女性の就業や社会進出の機会にまだ制限がある開発途上国では重要な意味を持ち、国内で少しずつ拡大しているという。そこで働く女性たちが伝統を重んじつつも知的で前向きな姿勢なのが印象的だった。
アンマンに戻り訪れたヨルダン博物館もJICAの協力で建設されたもので、ヨルダンと地域の歴史を知るために立ち寄るべき場所だ。中でも、紀元前7700年に作られたとされる世界最古の双頭の漆喰人形「アイン・ガザル」の表情と瞳からは、この地の約1万年の時の流れが感じられた。
Day 3: ジェラシュ、ウムカイス、ヨルダントレイル
早朝にアンマンを出て北方約50キロ先のジェラシュの街を目指した。古代ローマ遺跡があると聞いていたが、到着して目にしたものは想像をはるかに超えていた。2000年以上前の都市の輪郭と構造がそのまま残る遺跡群だった。しばらく立ち止まっているだけでその美しさに吸い込まれ、石畳に残された轍や教会跡のモザイクに手を触れると、古代ローマに引き込まれるような感覚を覚えた。円形劇場はその極みだった。客席に座り、静かにステージにあたる場所を見つめていると、2000年前の舞台の光景と歓声がそこにある気がした。
続いて国内最北の街ウムカイスに向かった。徐々に周囲に樹木が増えてくることに気づいた。ヨルダン北部には緑が多く、立ち寄った自然保護区の施設からは、ヨルダン=砂漠というイメージを覆す広大な手つかずの森林地帯を遠望できた。緑豊かなウムカイスはイスラエル、シリアに続く国境の街である。ゲストハウスの部屋のカーテンを開けると、ゴラン高原がすぐそこに見えた。ガイドが「イスラエルが占領するシリアの領土のゴラン高原です」と言う。1967年の第三次中東戦争でイスラエルが占領した土地で、ただの「ゴラン高原」ではない、ということのようだ。ニュースや現代史だけで知るゴラン高原が窓の外に広がっていたのは衝撃だったが、現在は近くにヨルダンとの国境警備と軍の駐留があるだけで、旅人にとっての緊張感はない。あらためてゲストハウスや近隣の様子を眺めると、なんとものどかで、穏やかな気候と木漏れ日が心地よい。
ウムカイスにはヨルダンを縦貫する「ヨルダントレイル」の北端の起点があり、実際にトレイルガイドと30分ほど歩いた。このトレイルは南北に約600キロ続くもので、ルートは古代から今に続く交易路にも沿っている。まさに「時」をも歩めるトレイルである。
続いて、国境近くの高台にも案内された。質素なコーヒースタンドがぽつんと建ち、ガイドとドライバーはトレイルのガイドと共にコーヒーを飲みながらタバコを吸っている。イスラエルが占領するシリア領土のゴラン高原をヨルダン側から眺めコーヒーを飲み談笑する、というなかなかレアな状況だった。世界の複雑さは、旅人の理解を超えている。
ゲストハウスに戻ると、地元の女性が伝統的な編み工芸の技術を見せてくれた。地域に古くから伝わる手法で、バナナの皮や葦を巧みに編み込んでバスケットやトレイなどを作る。生活用品としてだけでなく、土産物としても販売し、地域の経済活動につなげていると話していた。
夕食は地元で料理を教える女性の自宅に招かれた。キッチンは広く整然としていて清潔。チャーチールというヨルダン北部地域の伝統料理などを客間でいただいた。旅先では人々の家や暮らしを拝見させてもらうのが一番楽しい。ローカルが好む食事をおすそ分けしてもらえればなおさらだ。もてなしを受けて、ヨルダンの人たちは歴史的、文化的に旅人の扱いをよく知っている、そんな印象を持った。どこに行っても出会う人たちとの距離感がとても心地よいのだ。
Day 4: マダバ、ネボ山、そしてペトラ遺跡へ
ウムカイスから南に下り、マダバに到着。「モザイクシティ」とも呼ばれるこの美しい街には各時代の遺跡が多く残され、観光地としての整備も進んでいる。なにより旧約聖書にこの地がエジプトを出たモーセの終焉の地であることが記されていて、キリスト教やユダヤ教、聖書を知る人にとって重要な土地なのだ。マダバ郊外のネボ山からは大地溝帯とヨルダン川、対岸のヨルダン川西岸地区、エルサレム、死海を遠望した。宗教にも聖書にも疎い私には、その土地の意味を理解することは容易ではなかったが、モーセが「約束の地」を望みながらもそこに到達せず、この地で生涯を終えたとされている旧約聖書の記述の現場がまさにネボ山であること、そこからの光景は数千年ほぼ変わらずにあることが、訪れる人たちに特別な感慨を与えていることはわかった。
マダバ中心部にはおしゃれなカフェスタイルのレストランもあり、旅行者で賑わっていた。ローマ時代やビザンティン時代の遺跡や史跡も多いが、圧巻なのは「マダバのモザイク地図」だった。紀元1年ごろに作られたモザイクの中東の地図で、当時のエルサレムなどの様子がそのまま描かれている。この地に2000年以上前から人の暮らしがあり、宗教があり、技術と芸術があり、その一部が今も残り間近に見ることができる。
マダバを後にし、今回のヨルダン旅のハイライトの一つ、ペトラ遺跡に向かった。ヨルダンを南北に貫くルートにはヨルダン川と死海の東側に沿った古代からの交易路「王の道」(現在も道路がある)があるが、高速大量輸送を実現するため、東側の砂漠の中に「デザートハイウェー」が建設されている。ペトラへの道程としてそのハイウェーを、岩の砂漠とリン鉱石の採掘場所などを遠望しながら疾走した。
数時間後、ペトラ遺跡のエントランスに近いホテルに到着。オールド・ビレッジ・ホテル&リゾートはこの地に住んでいた部族の村をそのまま宿泊施設に転用したもので、スタッフにもナワフレという部族の姓が多いと聞いた。施設のグレードの高さが、ペトラ遺跡の観光地としての人気を示していた。
Day 5 ペトラ遺跡、ワディ・ラム砂漠へ
世界遺産・ペトラ遺跡は紀元前2世紀から紀元2世紀ごろに栄えたナバテア王国の都市遺構で、山岳地帯に多くの巨大な建造物が残されている。多くが高さ数十メートルの岩山の側面を削って精巧に建てられていることが特徴だ。遺跡の中を巡るトレイルコースは複数あるがメインのコースは整備されており歩きやすい。迂回ルートやバックトレイル、また遺跡の奥に進むにしたがって階段や急峻な山道が増え、本格的な遺跡トレッキングの様相が強まってくる。
ペトラ遺跡でほぼ一日を過ごしたが、規模のみならず、その存在感と時間軸があまりに壮大で、現実と想像の境界が曖昧になるようだった。その感覚はヨルダン到着以来あったのだが、ペトラは特別だった。ナバテア人が誇った2000年以上前の高度な利水・治水などのインフラ、建築技術、農業発祥の痕跡。それは常識的な想像力を凌駕するもので、旅人としての、あるいは一人の人間としての自分の存在が、途方もない時間の流れの中でとても小さく感じられた。ライターとして旅の体験を記録し文字にすることに意味があるのか、などとさえ思ったほどだ。大橋も、「目の前の遺跡の存在が壮大過ぎて、撮影という行為の意味がわからなくなってきた」というようなことを言っていた。ペトラは異空間とも呼べる場所だった。
JICAが建設に協力したペトラ博物館には、ナバテア人が水利に使った素焼きのパイプ、すなわち約2000年前の上水道施設が展示されていた。またナバテアの独自の文明が、大文明との交易によってもたらされたという事実、さらにはアラビア文字の起源、また人類の農業の起源などがこのナバテアから生じたものだという史実も展示されていた。驚くことにペトラは現代文明の始祖となるものが生まれた場所の一つなのだ。
ペトラには必ずまた戻ってこなくてはならない、と心の中でつぶやきながら車に戻り、サウジアラビア国境に続く砂漠の自然保護地区、世界遺産・ワディ・ラムに向かった。赤く細かい砂と岩山だけの世界である。その夜は、砂漠の真ん中にあるデザートキャンプに泊まった。ワイルドな観光地だ。宿泊するバブルスタイルのテントやシンプルなコテージの内部は快適だが、夜になると周囲の気温がぐっと下がる。そこはまさに砂漠の真っ只中だった。
Day 6 ワディ・ラム自然保護区、アカバへ
早朝、4WDでデザートサファリに出かけた。何もない砂漠の真ん中を疾走するが、ドライバーはまるで大海原を進む船頭のように自在にハンドルとアクセルを操っていた。彼らは砂漠に知らない場所はないと言っていた。ここは有史以前から人が住み、ギリシアやローマ時代の文献にもその名が記された土地だ。かつてはブドウの木などが茂っていたそうだが、今は赤い砂の大地と岩山だけの世界。火星の地表として映画の撮影地にもなっている。無限とも思える空間の広がりと時間の存在が、視覚と風の匂いなどから脳を刺激し続けた。
足元や服が砂まみれのまま、ワディ・ラムからヨルダン南端にある、国内で唯一外海に面する街、アカバに到着した。紀元前6世紀の遺跡があり、旧約聖書にも登場する港町だ。ヨルダンの海上貿易の拠点で、アカバ湾を挟んだ対岸には、イスラエルの港町やエジプトのシナイ半島を見渡せる。この街には経済特区が設置され、国内の他地域に比べて国際的なモノの流通が容易になっている。そこでは住居と商業施設とゴルフコースなどを含む大規模な民間の総合開発、アイラ・プロジェクトが進行中だ。敷地内に国際基準によるハイスペックの住居や店舗が並び、世界各国からの来訪や投資を期待していた。ヨルダン初のフルサイズのゴルフコースはグレッグ・ノーマンの設計で、18ホールのコースは砂漠の砂をうまく生かしたユニークかつ本格的なもの。世界のゴルファーにとって新たな選択肢になるかもしれない。総合開発プロジェクトの敷地内にはハイアット・リージェンシーなどの高級ホテルがあり、近隣のサラヤ・プロジェクトでは、これもヨルダン初の本格的な屋外プール施設も完成していた。
アカバは経済特区と総合開発を軸に今後も拡大と発展が予想されている。ペトラやワディ・ラム、そして死海のリゾートへのアクセスが良く、新たなヨルダン観光の拠点となることも期待されており、郊外のキングフセイン国際空港にはすでにヨーロッパのLCCが就航している。
Day 7 死海
アカバからは世界最低地・死海に向けてヨルダンの西の端にあるハイウェーを北上した。高度アプリの示す海抜はみるみる下がり、マイナス350mを超えていた。しばらくすると死海の南端が見えてきた。気候変動と流れ込む水量の減少で死海は縮小しており、現在は南北の2つに分かれている。南側の死海の周辺の土地は主に農業や工業に活用されていた。北側の死海のほうが大きく、リゾート施設はこちらに多い。その一つ、ヒルトン・バイ・デッドシーに投宿し、さっそく死海に面したホテルのプライベートビーチに繰り出した。
確かに身体が水面に浮かぶ。誰かが「胎内体験に近い感覚」と書いていたが、そうなのかもしれない。しかし私には数分で十分だった。塩水が目に入って辛かったのに加えて、体表の傷などにも刺激が強すぎるように感じたからだ。死海は超低地のため酸素濃度が高いことや水蒸気によって紫外線が低減されていることなど、さまざまな身体への効用が語られているが、もっとも私の心を揺さぶったのは、海面(湖面)と周辺の山々の、あらゆるものを凌駕する超然とした静けさに満ちた美しさだった。
Day 8 ベタニア、クイーンアリア国際空港へ
最終日は死海から数キロ北に位置する「ヨルダン川対岸のベタニア」に立ち寄った。キリストが洗礼を受けたとされる場所で、イスラエルとの国境となっているヨルダン川の岸辺に出向くことができる。
草木に覆われた濁った川の幅はわずか10mほどだった。対岸のイスラエル側でも多くの来訪者が、川に足をつけたり沐浴をしたり、あるいは実際に洗礼を受けながら静かに祈り続けていた。その状況は、宗教に関する知識が限られる私には十分に理解することはできなかったが、単なる観光スポットとして安易に訪れる場所ではないように感じた。世界には共通の観念がないとそこに立つ意義を見出しにくい場所がある。旅人はそれを尊重すべきだろう。
そんなことを考えつつ、アンマンのクイーンアリア国際空港に向かった。8日間の旅を終えて、次の目的地のアブダビに向かうためだ。7日前にアンマンを出発してからほぼ1200kmを移動したが、車やガイドやドライバーに深刻な不調もなく、走り続けられて良かった。
空港に到着しても、駆け抜けたヨルダンの旅体験があまりに濃密で、半ば呆然としていた。一つはっきりとしていたのは、ヨルダンは旅人として世界の中で訪れるべき場所の一つであると確信したことだ。そこには時間を軸にした旅の重要な要素が凝縮されていて、人とその歴史を理解する上で貴重な体験ができる。ヨルダンは確かに「時の王国」だ。ただそれは単に過去の史跡だけを観光資源にしているという意味ではない。そこにある遺跡などはすべて、数千年の時を経てもまだ、現在と未来に連続する存在だ。そこから私たちが感じ、読み取るべきものは限りなくある。
ヨルダンの各所で、中東の中での立ち位置、現在進行形の遺跡発掘、アカバなどの先端的な産業開発、そして女性の活躍を筆頭にした変わりゆく社会など、新しい旅のデスティネーションとしてのさまざまな魅力を知ることができた。何よりもさまざまな人たちに間近に接する機会があり、彼ら、彼女らの穏やかで温かなホスピタリティに触れることができたのは、旅人として幸福な体験だった。それは私にとって、いつかこの土地を再び訪れるための最高の理由になっている。
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