旅先のサンノゼで乗り込んだタクシーの運転席には、アジア系の男性が座っていた。四十前後だろうか。走り出してすぐ、携帯電話が鳴った。ハンズフリーで通話が始まる。最初は英語だったが、すぐに聞き慣れない言語に切り替わった。

通話が終わると、彼は振り返った。「外国語で騒がしくてすみません。同郷の仲間とこれからレストランを始めるもので、準備がいろいろあって」

「問題ないよ。ところで、今のはベトナムかカンボジアの言葉ですか」と、私。

彼は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに答えた。自分のルーツはベトナムで、話していたのはクメール語の一種だと。家族はカンボジア国境に近いメコンデルタに住んでいた少数民族だが、ベトナム戦争終結後はタイの難民キャンプで暮らし、自分が三歳だった1990年代初頭にアメリカにへ渡ってきたそうだ。

「日本人ですか」と彼が尋ねた。

そうだと答えると、彼は話し続けた。アメリカへの移住までのことは覚えていない。最も古い記憶は成田空港だという。

後に両親から聞いた話では、バンコクからは成田を経由するフライトでサンフランシスコへ向かった。成田には早朝に到着し、午後の乗り継ぎ便まで長い待ち時間があった。ターミナルで待つ間、昼食に「ベントー」が配られ、それは「カラアゲ」という日本式フライドチキンと白米のセットだった。幼い自分はその美味さに本当に驚いた。そして、その味覚と成田のターミナルの景色が人生最初の記憶になっているというのだ。

ハンドルを握る彼の横顔を見ながら、私は黙って考えていた。

1990年代前半、私は航空会社の成田空港のオフィスで働いていた。新人の業務の一つが、早朝にバンコクから到着する便のハンドリングだった。当時、国際移住機関がアレンジするインドシナ難民のアメリカ再定住プログラムがあり、毎便、アメリカに向かう数十人単位の難民家族のグループが搭乗していたのだ。

その頃の私はベトナム戦争や難民問題について、ほとんど何も知らなかった。航空会社にとっても、国際機関やアメリカ政府がどんな理由で運賃を負担していようと、乗客は乗客だった。上司から指示されていたのは、難民の乗客がトランジット中に行方不明にならないよう注意することだけだった。

とはいえ、彼ら・彼女らが空港ターミナルから脱出するのは容易ではないし、そもそもそうする理由もない。バンコク便が到着すると、英語を話すリーダー格の人物に「午後の出発までここで待機してください。飲料水とトイレはあちらです」とだけ伝え、あとは放置していた。全員が午後のアメリカ行き便に搭乗すれば、それで自分たちの仕事は終わりなのだ。

昼時になると、国際機関が費用負担する弁当が提供された。私は同僚と一緒に、「はい、唐揚げ弁当」と日本語で言いながら、配って回った。日本人にとってはごく普通の弁当だったが、事務的に手渡すと、ほとんどの人が無言で小さく微笑んだ。皆、箸を使いこなし、満面の笑みで完食した。

空になったトレイを回収しながら、私は彼ら、特に小さな子供たちのこれからを考えていた。アメリカでアメリカ人として成長する者も多いだろう。道を踏み外す者もいるかもしれない。成功して、いつかアメリカ市民としてベトナムを訪れる者もいるだろうか。難民になったのも、こうして移住するのも、自分で選んだ道ではない。すでに十分すぎる試練を経ている。この先の人生の幸福を願いながら、せめて成田空港で、短くとも穏やかな時間を過ごしてほしい。そう思っていた。

「どうかしました? 『ベントー』『カラアゲ』って、発音違ってます?」

ドライバーが笑って振り返った。

「ううん、完璧だよ」

私は窓の外に視線を移した。目の前にいるこの男性が、あの時の子供の一人だったかもしれない。だが、それを確かめる術はないし、必要もないのだろう。旅の途中で出会う人々は、時に不意に、私たちが忘れていた何かを思い出させてくれる。それだけで十分なのだ。

タクシーは目的地に到着した。料金を支払いながら、彼の新しい事業がうまくいくことを、ただ静かに願った。