近くて遠い国、という言葉があるが、ブルネイ・ダルサラームあるいはブルネイ王国もそんな土地の一つかもしれない。

東南アジア東端のボルネオ島北部に位置するも、その面積は三重県とほぼ同じで、人口はわずか約40万人。厳格なイスラム国家で、国王が国家元首の立憲君主制だが、実態は絶対君主制に近いともいわれる。そして国内での石油と天然ガスの産出と輸出で、国は「超」がいくつもつくほど裕福……。

そんな話はよく耳にするのだが、国内の様子や人の暮らしが、いまひとつわからない。考えてみたらこれまでブルネイに行かない理由はなくとも、積極的に行く理由もあまりなかったのである。それでは、とブルネイ王国を勝手に「個人的な秘境」ということにして、初めて訪れてみることにした。いつもの通り、準備は首都バンダーセリベガワンへの往復航空券だけ。あとのことは現地で考えよう。搭乗するのは、彼の国のフラッグキャリア、国営ロイヤルブルネイ航空である。

バンコクのスワンナプーム国際空港を離陸するロイヤルブルネイ航空のエアバスA320は真新しい。機内にはいわゆる「新車の匂い」がして、デザインや色合いのセンスには気品がある。そんな雰囲気からの連想だろうか、エコノミークラスのシート素材も本革に違いないと思い込んでしまうから不思議だ。同社はフルサービス・キャリアで、バンコクからの3時間弱のフライトでも当たり前のように機内食がサーブされる。短距離路線仕様の機体なので座席にIFEの個人モニターこそないが、ブランケットも飲み物もすべて無料だ(ただし、厳格なイスラム国家のルールとして、アルコール飲料はなし)。そしてそれらを提供する乗務員の態度や表情からは、東南アジアの空を席巻するLCCなど気にしないばかりか、その存在さえ知らないと言わんばかりの余裕が感じられる。

こんな満ち足りたフルサービスを安定感たっぷりで満喫できる機内空間は、LCCとの競合に365日神経をすり減らしているグローバルエアラインではもう失われたものなのではないだろうか……。食後にコーヒーとデザートを楽しみながら(もちろんタダ)そんなことを思うのは、ブルネイ王国に対する先入観の産物だろうか、あるいはLCCに慣れすぎたコストコンシャスな旅人の妄想か。

ほどなくしてバンダーセリベガワン国際空港に到着する。空港はコンパクトだが、ターミナルビルは白くガラスが多用された近代的な建物で、モスク建築のエッセンスが含まれているようにも見える。そしてターミナルの隣には本物のモスクと塔も建っている。空の玄関口からしてイスラムテイストが全開である。空港の周辺は背の低いジャングルに囲まれていて、国土が熱帯雨林の豊かな自然に包まれていることがわかる。

市内までの移動方法はタクシーしかないというので、悩まず乗り込む。旅人の嗅覚でドライバーや車内の空気感をチェックするが、危険度や怪しさ、不快感はほぼ感じられない。空港から続く高速道路は整備が行き届いていて、窓から遠望する街の中心部は豊かな緑とともに整然としている印象だ。歩いている人はあまり見かけず、車は日本やヨーロッパのメーカーの高級車が多い。それらはどれも新しく外観がとてもきれいだ。新車を買い続ける余裕があり、また定期的に洗車をしているか、屋根付きのガレージを持っている人が多いことが想像できる。

15分ほどであっけなくホテルに到着する。運賃をボラれることもチップをせがまれることも一切なく、スムーズにタクシーを降りると、そこはバンダーセリベガワンのど真ん中なのだが、あたりを見回しても高層ビル街や高級店が立ち並ぶような通りはなく、最高でも20階ほどの高さの銀行や石油会社などのビルがいくつか、控えめに社名やブランドの看板を出しているだけだ。 ホテル周囲はあっけにとられるほど静かで、東南アジアのどの都会にもあるような喧騒や雑多な雰囲気はほぼない。街中には人の数も多くなく、どこまでも清潔で落ち着いた静かな街、の風情がある。バンコクから大した距離は移動していないのだが、夕刻だからだろうか、遥か遠くの知らない国にやっとの思いで到達した時の寂寥のようなものも感じる。一方で、人の表情や行動、空気感から、ここには来訪者の安全を脅かす要素がほぼないことが直感できる。旅人にとってここは安全な土地なのだ、と。

翌日はバンダーセリベガワンを散策することにした。と言っても広域で人口約14万人の街である。中心部は20分もあれば一周することができそうだ。ホテルのレセプションに見どころを尋ねると「中心部のオールドモスク、ニューモスク、博物館、ショッピングモール」、続けて「郊外まで足を伸ばせば、国立公園のジャングル、ビーチ、石油掘削施設」との答え。それはつまり、決め手の見どころはほぼないということである。

それでも言われるままにぷらぷらと街を巡ってみると、人は少ない。欧米からと思われる旅行者にもたまに会うが、みな一様に暇を持て余して、ガツガツしていない半ば諦めのような良い顔をしている。街の店舗やレストランで働いている人の眼差しにもどこか余裕がある。公務員とおぼしき人を含めたビジネスパーソンからは、やる気がないわけではないが商売気はさほどない、といったゆるやかな印象を受ける。それは決して不快ではない。自分はこの緑に包まれた水辺の小さな首都に実際に住めるだろうか、彼らと同じペースで仕事ができるだろうか、と考えてみるが、うまく想像すらできない。ここは良い意味でどこか異次元感のある土地なのである。

時間を持て余して、さしてあてはないがブルネイ川の対岸の水上集落、カンポンアイールに渡ってみる。移動は「水上タクシー」という名の渡し船で約10分、運賃は数十円である。カンポンアイールは水上集落と言っても、それ自体が巨大な居住区域で、中には住民向けの商店や保育園やレストランなどもある。各戸は元々、水上に張り巡らされた桟橋(のようなもの)の上に建てられた簡易的な木造の住居なのだが、それらが近年、順次現代的な「戸建て住宅」に置き換わっている。水上集落の近代化は国策とのことで、住人は希望すれば新しい最先端の家に住み替えることができるのだそうだ。新しい「住宅」が建つエリアには「水上集落」という言葉からくる風情はあまり感じられないが、水辺の生活者の証だろうか、各戸の玄関下の川面に、自家用のボートがつながれている。

集落をひと巡りしてもといた対岸の街中心部に戻ろうとするが、水上集落側にはある水上タクシーの乗り場がない。どうしたものかと思って桟橋に立っていると、対岸付近や川の中ほどを走っているボートが何艘か私の姿を認め、すぐにこちらに舳先を向け、それぞれ船を進めてくる。その距離は最大で数百メートルあるだろうか。そして誰も先を急いでいない。私も慌てず最初に到着した水上タクシーにゆっくりと乗り込む。行き先は対岸(あるいは船が行けるところ)のどこでも好きなところを告げれば良い。ここにはこうして今も川を中心に自由でのんびりとした世界が広がっている。水上集落の建物そのものは刷新されても、川べりの人の暮らしの基本は、昔と変わらぬままなのだろう。

滞在3日目にはホテルで聞いた「国立公園のジャングル」を訪れようと思い立ち、バンダーセリベガワンの南側にあるウル・テンブロン国立公園のジャングルツアーに参加することにした。ブルネイ川を船で南下し、対岸の山道を車で進み、さらにジャングルの中を流れる川の支流を、今度は水深の浅い川でも進める簡易的なロングボートで遡る。途中、ところどころ川の水は少なく、ボートはまるで鮭の遡上のような機敏な動きで、水なき川面を川上に向かって突き進んでいく。船頭の目と竿さばきの見せ所である。船上で聞こえてくるのはロングボートの激しいエンジン音と川の流れ、かすかな風に揺れる熱帯の木々が揺れ合う音だけだ。

ボートが到着するのが国立公園の入り口にあたる環境管理センターで、そこからは徒歩で吊橋を渡り、さらに約1000段の木道の階段を登り切り、さらにジャングルのど真ん中で生い茂る樹木のさらに上まで突き抜けられるキャノピー(鉄塔)のてっぺんに上がることができる。鉄塔は日本の工事現場の足場のようなシンプルな構造体で、上る途中にも自分の体重や重心の移動で大きく揺れる。整備作業や安全の注意喚起は行われているものの、かなりのワイルド感が楽しめる。そしてなにより、頂上からの光景は圧巻だ。360度の人跡未踏の熱帯雨林のジャングルを一望できるのだ。

この熱帯雨林の国立公園は面積が約5万平方メートルあるが、一般訪問者が立ち入ることができるのは、今歩いてきたルートやキャノピーのあるエリアなど約100平方メートルだけだというから、その壮大さがわかるだろう。ここは自然保護区であり、植物だけでなく動物や昆虫も数多く生息する。これまでに聞いたことのない鳥や虫などの鳴き声が、森の中から絶え間なく響いてくるのが楽しく、そして感動的だ。国土の7割が森林に覆われるブルネイの中でも最高の自然環境を守っているのがこのウル・テンブロン国立公園なのである。裕福な国の予算が、このような自然環境保全に具体的に生かされていることは、重要なことである。

帰路のボートに乗ろうとすると、ツアーのガイドがチューブ(実際の大型タイヤのチューブ)の浮き輪に乗って、のんびり川下りをしろと言う。勧められるまま1時間ほどかけて、往路にロングボートで遡ってきた川を、そのゆるやかな大自然の流れに任せてのんびりと下る。緑深い熱帯雨林のジャングルのど真ん中を、一切の動力なしで1時間漂うなど、かなり贅沢な旅体験である。耳に入ってくるのは川面を流れる水の音と、木々の間を飛ぶ鳥の羽ばたき、森の中に生息している虫の鳴き声と、風の音だけである。川面でどこか瞑想にも似た時間を過ごしていると、時折、川を遡ってくるロングボートとすれ違う。けたたましいが、大自然に吸い込まれていくエンジン音だけが、現代文明との唯一の接点のように感じる。

チューブの移動では、浅瀬や川の流れが急な場所では川底に尻を擦ったり、水の速い動きに翻弄されたりすることもある。このジャングルツアー、いったいどの程度安全性が確保されているのだろうか、などと不安が頭をよぎるが、まあそれは多くのことが寛容でおおようなブルネイでは愚問というものだろう。めったなことはない、そして何かがあっても大丈夫だ、なぜならここは国民の医療も教育も無料であるほどの、世界有数の金持ちの国である。観光業もそれなりの管理がなされ、旅行者にも一定の保護があるはずだと、根拠は薄く、説得力は極めて弱いが、そう無理やり自分を安心させることにする。

大自然を無制限に楽しめて、ちょっとだけ心配なブルネイのジャングルツアー、熱帯の環境を直に体験し、旅と人生に刺激を与えるにはお勧めだ帰途につくため、バンダーセリベガワン国際空港に戻る。

改めて見るコンパクトなターミナルビルはやはりデザインがスタイリッシュで、清掃が行き届いている印象だ。どこか日本の中規模の地方空港のようでもある。そしてロイヤルブルネイ航空のカウンターは、さすがフラッグシップキャリアであり、上級クラスの専用カウンターなど、空港でのフルサービスを提供する環境を整えている。旅客には市内や熱帯雨林の公園ではあまり見かけなかったさまざまな国籍の人たちが数多くいる。ほとんどは天然資源関係のビジネスパーソンや政府関係者だという。ブルネイ王国を舞台に桁違いの規模の巨大な国際プロジェクトが絶え間なく動いていることは想像にかたくない。ロイヤルブルネイ航空はそんな世界に生きる人々のリアルな移動を担う、重要な交通サービスでもあるのだ。一方でこの空港では、各国の若いバックパッカーらは、東南アジアでは珍しく少々肩身が狭そうで、居心地があまりよさなさそうであることが面白い。もちろん彼らにはそれもまた貴重な旅体験になるはずだが。

この空港にも各国のLCCは就航しているのだが、やはりロイヤルブルネイ航空の本拠地にして独壇場の趣が強い。ターミナルを歩く同社の地上スタッフや乗務員らの「ホーム」での安心感と自信と気品に満ちた表情が美しい。機内に搭乗してもそんな「ブルネイ」テイストは続く。当然のように定刻で離陸し、また往路に感激した王道の機内のフルサービスを楽しむ。

バンコク・スワンナプーム空港に到着すると、まるでどろどろとした現実世界に引き戻された気がした。降機して振り返ると、ロイヤルブルネイ航空の航空機が消えているのではないか、と思えるほどの不思議な感覚だ。それほど自分がブルネイで、東南アジアの他のどこにもない独自の空気を感じたということだろう。文化や伝統、人々の日々の暮らし、そして政治や経済が国や地域を形作っているとすれば、ある種の閉鎖空間としてのブルネイ王国では、それがその土地の「スピリット」にまで高められているのかもしれない。これまでそんな素晴らしいことに気付かず、「特に行く理由もなかった」などと言っていたのは、旅人としてなんとも不覚である。