道北の狭い山道を車で走っていると、路肩の熊笹に半ば隠れて「ロテン→」となぐり書きされた木片を見かけた。道路脇に車を止めて矢印の指す方向を眺めると、背の高い雑木や草に覆われた獣道があるだけで、その先は深い森に埋もれている。

「ロテン」とは露天風呂のことだろう。温浴施設などではなく、森の中の野天の温泉に違いない。木片は地元の人か温泉愛好家が親切にも立てたものだと、根拠もなく考えて、森の中に分け入った。

虫刺されや野生動物との遭遇を気にしながら十分ほど進むと、硫黄の匂いがした。すぐに幅一メートルほどの沢に出た。細い丸太が架けられている。沢の向こう側には楕円形の小さな窪みがあり、中に溜まった温泉から湯気が立ち上っていた。岩の隙間から湧き出る熱水を誰かが見つけ、少し穴を掘って周囲に石を並べたのだろう。恐る恐る手を入れると、ちょうどいい湯加減だった。私は周囲に誰もいないことを確認して脱衣し、文字通り自然と一体になって湯に浸かった。ゆっくりと温まってから、満ち足りた気分で車に引き返した。北海道、最高じゃないか。

異変は半日後に訪れた。手足に痒みを感じ始めたのだ。痒みはどんどんエスカレートして、気づけば身体中に赤い斑点が出ている。全身が腫れぼったく、熱を帯びているようだ。さすがにこれは尋常ではない。

慌てて近くの町にある薬局に駆け込むと、薬剤師に「これは市販薬では無理なので、病院へ」と冷静に言われた。ただし町の診療所は決められた日にだけ医師が来るという。「病院」というのは、もっと大きな町にある総合病院のことだった。

地図アプリとカーナビが示した最寄りの総合病院は、百キロほど先のオホーツク海に面した町にあった。身体中が熱を持ち、息をするのも苦しくなってきている。行くしかない。不安を抱えながらもなんとか理性を保ち、総合病院を目指して車を走らせた。

病院にたどり着いた時にはすでに時間外で、当直の医師は外科が専門だった。私の皮膚を見て「うーん」と唸り、「点滴しましょう」と言った。

ベッドに横たわって点滴を受けていると、痒みや熱が引いていくように感じた。不安が和らいだせいか、眠気が襲ってくる。「時間かかりますよ」と看護師が言っていたので、このまま眠ってもいいのだろう。うとうとする中で、医師や看護師の会話がかすかに聞こえた。「温泉」「硫黄」「湿疹」という単語が耳に届く。私の症状は珍しいものではないのだろうか。そして「あんな山の中の露天の……」という声も聞こえたような気もしたのだが、その直後、深い眠りに落ちた。

数日後、症状はほぼ治まった。別の皮膚科医からは「硫黄皮膚炎、湯ただれだね。今度からpHが4.5より低い強酸性温泉は避けた方がいいかな」と言われた。

自分の皮膚が意外にも繊細で、こんな反応をすることを知れたのは良かった。それと同時に、北海道の自然が自分の想像以上に強力で、人間の都合などお構いなしだということも身をもって理解できた。地元の人にとっては、当たり前のことだと思うが。

あの野天風呂を再び訪れることはないと思う。それでもなんとなく気になって、道路脇の木片の位置や湯船の場所を地図アプリやウェブ情報で探している。しかしなぜか、どうしても特定できない。もしかしたら、あの木片も獣道も、最初から存在していなかったのでは? などと、小説の「夢落ち」のエンディングのような気分になっている。