サハリンはずっと行きたかった土地だ。その理由はそこが自然豊かなロシア極東の最果ての地で、かつてその南半分が「南樺太」と呼ばれ日本の統治下にあったという地理と歴史への興味だけではない。数十年前に初めて稚内を訪れ宗谷海峡の波の向こうに浮かぶサハリン島を肉眼で見て以来、ずっと「最も近くて、行けそうで行かない隣国」という、旅人としてなんとも心にひっかかる存在だったからだ。この旅行記は、まだ春遠いサハリンのユジノサハリンスクを、長年の旅の希望を叶えるべく、少々意を決して訪れた旅の記録である。
宗谷岬からサハリン南端のクリリオン岬までの距離は、43キロ。その距離はというと、たとえばJR東日本の営業距離なら東京駅〜八王子駅と同程度で、ストイックなマラソンランナーなら2時間台で走破できる距離である。一般人でも気合を入れれば1日で歩けなくもない。実際、日本人のルーツとなる人たちはかつて凍った宗谷海峡を歩いて現在の北海道に到達したという説もある。そんな距離とはいえ、今の私ではさすがに自力では海峡を渡ることはできないので、渡航には露・サハリン航空の新千歳空港発ユジノサハリンスク行きのフライトを利用した。
出発地は約3年前にオープンした新千歳の国際線ターミナル。韓国・中国・台湾など東アジアを中心にした近隣国の都市へのフライトが多数就航する中、サハリン航空の搭乗カウンターは独特な雰囲気を醸し出している。なんといってもロシア系の顔をした旅客が大多数で、また語られる言葉も普段耳にする機会が多くないロシア語である。日本人旅行者はビジネスマンを中心に、全体の1〜2割程度か。旅のテンションはいや応にも上がる。同社は同路線に週2便定期便を運航するほか、別に週1往復、ロシアのエネルギー関連会社のチャーター便を同路線に運航しているという。サハリンの旅行目的地としての知名度、査証(渡航ビザ)の取得の必要性、少々高めの航空運賃などを考えると、そのトラフィックの多さは予想以上だ。
ボーイング737型機に搭乗すると、ロシア人の客室乗務員が笑顔で迎えてくれる。国際線ではあるが、機内サービスはキャンディーとソフトドリンクだけだ。極めてシンプルであるのは、フライトタイムが時刻表表記で1時間20分、実際の飛行時間は1時間ちょっとであるためである。完全に日本の国内線の感覚なのだ。札幌〜ユジノサハリンスクの直線距離は約450キロ。南に向かえば仙台の少し手前までとほぼ同じ距離になる。
機内では、腰を落ち着けることなく(実際に冬用の上着を脱がないままの旅客も多かった)うたた寝している間に、ユジノサハリンスクへの降下が始まった。時間感覚としては遠くにやって来た印象はまったくないが、窓の外に目をやると、そこには、流氷に埋め尽くされた海岸線と雪に覆われた白い大地が見える。ロシア・サハリン島である。3月半ばでのこの冬景色に、これから向かう場所が北海道のはるか北方、北緯45度〜50度の土地であることを再確認する。
ホムトヴォ空港は「別世界」
ユジノサハリンスクのホムトヴォ空港に降り立つと、そこはもう完全に別世界である。東ヨーロッパの小国の雰囲気のようでもあり、ソ連時代の質実剛健な雰囲気を残す空気感もなんとなく感じる。周囲の景色の中には、航空機の機体の塗装以外は明るい色合いはほぼない。新千歳空港の華やかで賑やかな光景とのあまりのギャップに、まるで異空間に迷い込んだ気分にもなる。元来、旅客として乗る飛行機は「どこでもドア」に近いと思っていたが、「居眠りしているうちに別世界に行ける」というどこでもドア感覚を最も強く感じられるのは、この新千歳〜ユジノサハリンスク線かもしれない。
ホムトヴォ空港はサハリン航空の運航拠点で、同社を含む国内各社がここから沿海州のウラジオストクやハバロフスク、さらにはカムチャッカ半島や北方4島を含むクルリ列島などへの定期便を運航している。もちろん首都モスクワへもアエロフロートなどの定期便が飛ぶ。ターミナルビルはしっかりとした建物だがそれほどの規模感はなく、就航機材も小型機から中型機が中心だ。しかし3500メートル滑走路を1本運用するのは、大型軍用機の離発着があり、北米からアジアへの直行便の(緊急的な)給油地として使われることもあるからだという。質実剛健、機能最優先といったところか。
ターミナル前からタクシーに乗り込む。車内のラジオから流れる音楽も現代風ではあるが普段耳慣れないメロディとロシア語の歌詞だ。どこの国に行っても最初に乗るタクシーの車内は貴重なローカル情報の収集の場なのだが、今回に限っては中年のロシア人の男性ドライバーとは一切、会話がない。会話がないのはドライバーが無愛想なだけではなく、日本語あるいは英語をまったく理解せず、私がロシア語を話さないためだ。完全に凍りついた道路を高速かつ安全に走ることに集中しているのも、ドライバーが寡黙な理由かもしれない。街中の雪はまだ深い。そして太陽の光もまた、弱々しい中高緯度の土地のそれだ。車窓からは人の暮らしの気配が見え不安感はそれほどないが、少しばかりの「辺境」の旅の寂しさがないといえばウソになる。
ユジノサハリンスクの街の中心部のホテルに投宿。ホテル従業員が英語を少し話すことを知り、妙にほっとする。言葉の通じない土地を旅した回数は数え切れないが、日本の国土から50キロ弱の島の都会でのこの状況は、むしろどこか楽しいアトラクションのようなレア体験にも感じる。Wi-fiが難なく使えるのも印象的だ。世界の多くの都市の例にもれず、多くの人たちがロビーで情報端末を持ち歩き、SNSでコミュニケーションをとっている。
さっそく街を散策する。通りや建物は一見、東ヨーロッパ風あるいはロシア風。旧ソ連風とも言えるものも多い。通りは全体的にゆったりとした印象だ。道行く人はざっくりと言って約8割がロシア系の白人。残りが東アジア系の顔をしているように見受けられる。建物や人の顔とは別に、街を歩いていてどことなく既視感がある。不思議に思っていると、通りを走っているクルマの9割以上が日本車であることに気づく。なるほど、普段見慣れたフォルムやサイズに無意識に親近感を感じていたのか。たまたま話を聞いたカーディーラーによると、街を走る中古車は北海道などから定期的にフェリーで輸入されており、個人輸入者向けの日本への中古車買い付けツアーもあるのだという。中古日本車のクオリティを海外で最も享受しているのは、物理的な距離の近いサハリンの人たちかもしれない。
ユジノサハリンスクは現在、サハリン州の州都だが、日露戦争後の40年間(1905年〜1945年)は「豊原」と呼ばれていた。日本がサハリンの北緯50度以南を「南樺太」として統治していた時代である。当時、この街には「樺太庁」が置かれ、サハリン開拓の拠点だった。街そのものも札幌の格子状の街区をモデルにして計画的に作られたというから、現在のユジノサハリンスクの原型は約100年前に日本人が作ったことになる。現在では、統治時代の面影を残す建物や遺構などはごく限られており、街を歩くだけではほとんどそれを意識しないが、正確に格子状に続く幅広の道路や、街の周辺を流れる川、背後に迫る穏やかな山並みなど、街全体の雰囲気は言われてみると札幌の景色に似ているような気もしてくる。
市の中心部はおよそ1.5キロメートル四方のエリアだ。山側の東を「カムサモーリスカヤ通り」に、鉄道駅のある西の端を「バグザーリアナ通り」に、空港に続く南側を「パピェードウィ通り」に、北側を「サハリーンスカヤ通り」にそれぞれ囲まれ、その中央を東西に街路樹のあるメインストリート「コムニスチーチェスキー通り」が貫く。このエリア内に州都そして商都としての都市機能がほぼおさまっている。天気が良ければ、市内のほぼすべての観光名所を徒歩で巡ることも不可能ではないコンパクトさだ。また、10階以上の建物は少なく、空は広い。街全体に落ち着いた印象がある。
スーパーマーケットをのぞくと商品は思いのほか豊かにそろっている。さっそく物価をチェックしてみる。旅先ではまずこうして日常生活の金銭感覚を身につけておくと、その後の行動が楽なのだ。ソフトドリンクが45ルーブル=約135円(1ルーブル=約3円)。ビールが50-100ルーブル=約150円〜300円。大きめのサンドイッチなどが200ルーブル=約600円。驚くことに日本とほぼ同じである。
続いてレストランに入ってみる。それなりのグレードのレストランには必ず有人クロークがあり、メインダイニングに入る前に全員コートを預けるシステムになっている。クロークではわずかだがお金もかかる。これは雪国ならではのサービスなのか、ロシア式のマナーなのかは判断がつかないが、1人で軽く食事をしたいときなどには正直少々面倒である。かと言って、カジュアルなカフェが軒を連ねているわけでもない。このあたりの事情は異国情緒こそ感じられるものの、旅行目的地としては個人の日本人旅行者には敷居が高いかもしれない。レストランでは新鮮なシーフード中心のロシア料理に舌鼓を打つ。ビーフストロガノフに焼きじゃがいも、「ウハー」と呼ばれる魚のスープなど、いずれも地元産の素材が豊かなのだろう、素朴な味わいの味の中にもしっかりとした食べ応えがある。全体的に塩味が強めなのが特徴で、食事と共にウォッカやビールが進むのは言うまでもない。
日本とは同緯度にあるものの、サハリンの標準時は2時間進んでいる。そのためあっという間に初日は終わりだ。わずか数時間の市内探訪であったが、人々が積極的に話しかけてくることはないものの、こちらから何かを尋ねると言葉が通じないのに極めてフレンドリーである。満面の笑みとまではいかずとも、敵意のない穏やかな表情で真剣に旅行者をサポートしてくれることが印象的だったな、などと思いながらホテルに戻る。
翌日は快晴だ。青空が印象的な冬の天候だが、湿度はあまり低くない。摂氏0度前後の寒さ以外はいたって快適である。ふと、出発前の東京での過酷な花粉症の症状がすっかりなくなっているのに気づく。事前に資料を読んでいて、サハリンの夏季は将来、日本の本州以南からの避暑地になるのではないか、と思っていたが、国内の花粉の飛散が今後さらに拡大するようなら、毎春、ユジノサハリンスクが人気の「避花粉地」になり得るのではないだろうか?
鉄道駅に程近いレーニン像の前の広場にやってくる。高さ9メートルの像は威容がある。ソ連時代は間違いなくここが街の中心だったのだろう。国の体制が変わってもここに建ち続けているのは、レーニンが政治家・革命家であるだけでなく思想家としてリスペクトされているからか。広場の雪除け作業が熱心かつ丁寧に行われているすぐ横では、市内に数カ所しかない電光掲示のビルボードが建っている。日本でLED照明や高精密の液晶ディスプレイに日常的に接している目には、かなりレトロで貧弱に見えるが、レーニンの目にはどう映っているのだろうか。
ユジノサハリンスクの現状と日本との交流について話を聞こうと、レーニン像広場に程近い「北海道サハリン事務所」を訪れる。対応いただいた主査の長崎高光さんと亀井良司さんによると、同事務所は北海道の唯一の海外直営事務所で、2001年に開設されたという。日本人職員3人とロシア人スタッフ4人を抱える大きなオフィスで、サハリン州と道の関係強化や交流活動、情報収集の拠点となっている。サハリン州は海底油田開発などエネルギー関連の「サハリンプロジェクト」の進展で、経済の動きは活発であるそうだ。生活水準を見ても、2011年のユジノサハリンスク市民1人あたりの平均賃金が月約4万ルーブル(約12万円)で、2006年と比較して193%に上昇している。昨日見た街中での物価高にもなんとなく納得である。さらに驚くことに失業率は0.9%で、ロシア平均の3分の1、州全体の半分と、かなり低レベルだ。北海道の完全失業率5.1%とは比較にならないほど良い状況だ。そんな話を聞くと、新千歳出発時に見た、ユジノサハリンスクへ帰る訪日ロシア人の手荷物の多さを思い出した。消費活動が活発で、多くの旅客が超過料金を払ってでも大量の土産物や日本製の日常生活用品を購入しサハリンに持ち帰っているのだろう。長崎さんと亀井さんによると、サハリンの人々は日本ブランドや日本人に対して信頼感を持っており、距離の近さからも一定の親近感があるという。街中の車がほぼすべて日本車であることもその証左の一つなのだ。
そのような発展的な関係をベースに、現在、北海道からサハリンに向けた観光ルートの開発や企画が進んでいる。内容は日本統治時代の遺構巡りに限らず、サハリンの大自然、ロシア料理やシーフードを堪能し、ロシア風のサウナ風呂「バーニャ」を体験するなど多彩だ。最近では24時間営業の商店で日本同様の品揃えの商品が並び、大型のショッピングセンターがオープンしているほか、日本食を含むレストランの質の向上がみられることなども魅力だという。ユジノサハリンスクでは夜でも家族連れで歩いてホテルに帰れるほど治安が良いことも、ポイントが高い。一方で、観光利用可能な公共交通機関が少なく、地方では未整備の道路も多いなど、「インフラの整備はこれから」とも。観光リソースがありポテンシャルは高く、観光市場の開発が進められているが、まだまだ課題も多い、というのが現状だろうか。夏季の稚内からのフェリーによる渡航では72時間以内のビザなし渡航が可能であるなど、サハリン観光がこれからじわりと拡大する下地は整いつつある印象だ。航空便の拡充と併せて今後の展開に注目したい。
ユジノサハリンスクには現在、北海道サハリン事務所のほか日本領事館と稚内市のサハリン事務所、日系の銀行・商社・メディアの支店などがあり、約60人の日本人が在住している。観光分野以外のビジネスの交流も活発に行われ、それらは拡大傾向にあるそうだ。
サハリンの現状を把握したところで、鉄道のユジノサハリンスク駅(旧・豊原駅)に向かう。ここから鉄路がサハリン南端に近い港町で夏季に稚内からのフェリーが着くコルサコフ(旧・大泊)や島北端のオハ、さらにはタタール(間宮)海峡を超えてユーラシア大陸につながる鉄道連絡船の発着地ホルムスク(旧・真岡)につながっている。駅舎は比較的新しいものだが、線路や鉄道のシステムは日本統治時代に建設されたものがベースになっているそうで老朽化が目立つ。鉄道は基本、貨物輸送が主流のようで、さきほど北海道事務所で話を聞いたように、観光客が気軽に利用するには運行本数が少なく、また夏季以外には雪のため目的地での行動がかなり制限される。緑あふれる夏季に再訪した際には、ここから鉄路を進み、ぜひ島の北端まで、あるいは鉄道連絡船で大陸に行ってみたいものだ。
メインストリートの「コムニスチーチェスキー通り」を東に移動し「郷土博物館」に向かう。ユジノサハリンスクの中でも最も「日本統治時代」を感じられる建物だ。日本の城郭を模した屋根のラインに特徴のある重厚な日本建築は、当時も「樺太庁博物館」だった建物だ。外観は日本らしい設計なのだが現在の日本では見ることのないスタイルで、タイムスリップ感と希少感がある。正門の扉には「菊の御紋(菊花紋章)」が彫られているほか、内部の構造や木を多用したインテリアからも当時の最高レベルの日本建築のデザインと技術を垣間見ることができる。博物館は、サハリンの古代から現在までの歴史を、史料や写真・マルチメディアコンテンツの展示を通して学ぶことができる内容で、ソ連時代には封印されていたという日本統治時代の品々もケースの中に並ぶ。当時の北緯50度ラインに設置された日本とロシアの「国境」の標石をはじめ、「豊原」の街や開拓者の暮らしを伝える写真や実際の日用品などの数々がとても印象的だ。まるで時が止まったかのような風合いの展示物を見つめ、先人たちの開拓地での活躍と苦労を偲ぶと同時に、その後の運命を慮る。ソ連崩壊後のサハリン州がこの展示を行うことを決め、そのスペースがかなり広く取られていることから、日本とサハリンの見えないつながり、そしてサハリン人の日本人に対する特別な感情の一部が伝わってくるようにも感じる。
郷土博物館の入館料は70ルーブル(約210円)。カメラ撮影には別途100ルーブル(約300円)、ビデオ撮影には150ルーブル(約450円)が必要だ。館内で撮影していると、時折、学芸員兼警備員と思われるおばさんが「撮影は有料だよ。代金、払ってる?」とちょっと厳しい表情でロシア語で聞いてくる。「入り口で払ったよ」とレシートを見せると、「あら、なら大丈夫だよ」と笑顔になる。このやりとりが延々と繰り返されるところがなんとも面倒でもあり、どこか楽しくもある。ロシア人はこういう「手続き」みたいなものが好きなのだろうか、とも思う。
ユジノサハリンスク市内にはこの郷土博物館のほか、旧拓殖銀行豊原支店がサハリン州美術館として、旧豊原市立病院が軍病院として、旧豊原市公園がガガーリン公園として、それぞれほぼ当時のまま現在も使用されている。ホムトヴォ空港もまた、そのルーツは日本統治時代の「大沢飛行場」に遡るが、現在、その痕跡はほぼない。
これからどうなる、日本とサハリン
一般的に日本で「ロシア」と聞いて、ポジティブなイメージだけを持つ人は多くないはずだ。ロシアが生んだ世界に誇る偉大な芸術や文化、そして大自然などは数えきれないが、第二次世界大戦末期と戦後の日本とソ連関係や、長く続いた政治・経済の腐敗と混乱などから、どうにも正面切って「友人」だと言い切れない、というのが多くの人の率直な気分なのではないだろうか。しかし、その背景には長らく互いに相手のことを知らず、また知る機会がなかったことも理由としてあるはずだ。今回、わずか稚内からサハリン島の距離がわずか43キロ、ジェット機でも1時間ちょっとの距離であることを体験し、ロシアが日本の「隣国」であることを改めて実感した。
国レベルでは北方領土問題など、日本とロシアの間で解決すべき問題は多くある。そしてそのプロセスには時間がかかるかもしれない。それでも、ロシアが日本の「隣国」で、サハリンの人たちが「隣人」である事実は変わらない。しかし日本の多くの人々がそんな隣人意識を持っていないことが課題の一つかもしれない。活動のエリアは経済交流でも観光市場の開発でも、留学生の交換でも構わないが、サハリンの半分は「かつて日本が統治した南樺太」という枠からさらに進化し、新しい日本の隣国としての位置づけで接していくことができれば、それが新しい信頼と関係性につながるように思う。同じ「極東」を共有する隣人を、誰も無視することはできない。
冒頭にサハリンの人たちの人種の割合の印象を書いたが、街を歩いているうちに、ロシア人とアジア系のハーフあるいはクオーターを思わせる風貌の人々や、白人とアジア系のカップルも数多くいることに気づいた。日本統治時代以降の世代も現在までに3世代目、4世代目となり、そういった面でもサハリンが変化を続けていることを覚えておこう。
ロシアでは一般旅行者による事前許可のない写真撮影が一部制限されている。厳密には政府および軍関係の施設が対象だそうだが、ほとんどの商業施設や建物の内部でも撮影を止められる(例外は「撮影料金」が設定されている前述の郷土博物館など)。止められる、と言っても警察官やガードマンが制止の後に、画像データの削除やメモリーカードやカメラの没収を求めるわけではない。興味なさそうに立ち去るだけなのだ。「自由市場」と呼ばれる露天市場や一部の表どおりでも同様で、さらに、多くの人は被写体になることを強く拒む(または、怒りをぶつけてくる)。デパートのカメラショップの店員にその理由を聞いてみると、「自分たちでもよくわからないけど昔から撮影はダメだね。でもサハリン人が旅行に行くときにはここでカメラを買っていくよ」とのこと。一説によると、メディア規制が厳しく一般人の間でも密告など横行していたソ連時代の「負の遺産」を、習慣として継承しているのではないか、とのことだ。確かに、ここまでの滞在中に私のカメラに笑顔を向けてくれたのは通りで魚を売るおじさん1人だけだったことを思い出す。読者のみなさんが個人旅行者としてサハリンに行く際には、十分気をつけたほうがいいだろう。ちなみに鉄道駅の内部や車両・線路、そして空港ターミナル内とランプ・航空機は軍事施設扱いで原則、写真・ビデオ撮影が禁止されている。
サハリン航空での新千歳への帰路は、搭乗手続きも出国手続きもスムーズどころかとても効率的で、もちろん定刻の出発だ。ターミナルビルの国際線エリアに到着した際は、その狭さから多少の混乱は覚悟していただけに、少し拍子抜けの感もある。今日もまた多くのロシア人が北海道あるいはその先の日本各地を目指して出発する。ビジネスマンに加えて、子どもを連れた家族連れやカップルもいる。皆、表情が楽しそうだ。機内の窓際のシートに座り、ユジノサハリンスクでの刺激的な数日間を反芻しつつ、窓から広大な流氷原を見下ろしていると、機体はすぐに雪雲の中に入る。はっと気づくと、うかつにもまたうたた寝してしまったようで、機体はもう新千歳への降下を始めている。そして着陸。
気づくとこうして新千歳空港のターミナルビルにいる。携帯電話が普通に通じて、メールもどんどん着信する。周囲はLEDの光にあふれ、コンビニには信じられないくらい色鮮やかな商品が並ぶ。わずか1時間少し前まで日本語も英語も通じないロシアの街にいたとは信じられない光景だ。やはりサハリン航空は「どこでもドア」である。
異なる土地のあり様を肌で感じるのが旅の原点であるなら、たった1時間でそれを体験できるサハリンはおすすめの目的地である。たとえ観光リソースは未整備でも、「極東」が日本だけでなく、またそこに長らく「隣人」が住んでいることを知る体験は、大きな価値がある。
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