マドリードの街を歩いていたら、淡いベージュの建物の正面に出た。Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía(ソフィア王妃芸術センター)、とある。
旅先で、気まぐれに美術館や博物館に立ち寄ることは多い。芸術や歴史に詳しいわけではない。涼みたいとか、少し疲れたとか、時間を潰すなどということが理由である場合もある。ただ、ヨーロッパの絵や彫刻には、他の地域では感じない重さがあると思っている。思念と時間の堆積、とでも言えばいいのか。そういうものは、知識なしでも身体は受け取れる。それを感じるために、美術館や博物館に足を踏み入れているのかもしれない。
その日、ソフィア王妃芸術センターに入ったのもほぼ偶然だった。チケットを買い、フロアを歩く。現代アートのコレクションが並ぶ空間を、少しゆっくりと、それでも特に立ち止まることもなく通り過ぎる。それぞれの作品について、自分が好きなのかどうかも正直よくわからない。ただ、さまざまな感情が薄く浮かんでは消えることは確かだ。絵の前に数秒立ち、また歩く。芸術に疎い観光客らしい鑑賞をしている自分を俯瞰しながら、偶然の旅人として、それはそれで悪くはないと思っている。
ある部屋に入ったとき、空気の質が違った。たくさんの人がいるのに、誰も声を出していない。何かに抑えられているような沈黙、だろうか。
ホールの奥の壁に、大きな絵がかかっていた。
縦三メートル強、横七メートル以上はある。白と黒と灰色だけで描かれている。一見してわかるのは、それが何か恐ろしいことを描いているということだ。あらゆるものが混乱の中で崩壊している。人が倒れ、動物が叫んでいる。炎があり、剣があり、赤ちゃんと思える描写もある。素人目にも構図はばらばらで、視点は一つに定まらない。そして、「破壊」「死」「悲しみ」「叫び」などという言葉が、どの国の言語でもなく、脳裏に飛び込んでくる。
ピカソの「ゲルニカ」だ。
何か取り返しのつかないことが起きた、という事実だけが、絵の中に詰め込まれている。立ち尽くす、という言葉のままに、その絵をしばらく見た。立ち去る理由が見つからなかっただけでなく、まだ見ていなければならない、という感覚さえある。自分がそう感じたことに、少し驚いた。
絵が言葉を持つとは聞いたことがあった。でも、それを概念として理解するのと、体験として受け取るのは、まったく別のことなのだろう。その日の私は後者だった。
美術館を出て、夕刻のマドリードの通りを歩きながら、自分の中の何かが少し動いた感じがしていた。旅には、予定していなかった場所で予定していなかったものを受け取ることがある。それを「出会い」などと呼ぶのはあまりに凡庸なので、他の適切な言葉を探している。
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