世界各地の歓楽街について見聞きするたび、多くの人は、さまざまな妄想と共に「いつか訪れてみたい」という願望を抱く。私も例外ではない。それは根源的な旅の動機に通じる、本能に近い好奇心なのではないか。
ただ、そうした興味は遠くにあるからこそ掻き立てられるもの。手の届く場所にあると、むしろ足が遠のいてしまう。タイに住んでいた頃の私がそうだった。
首都バンコクは言わずと知れたナイトライフが充実した街で、望めば誰でも非日常を味わえる場所が数多くある。しかし私はすぐに、そうした場所の無軌道で解放的過ぎる雰囲気に飽きて、何となく避けるようになった。
その頃、日本から多くの知人が訪ねてきた。彼ら・彼女らは皆、ほぼ同じ行動パターンを辿った。
まず、明快な調子のメールか電話が届く。「○月○日に一人でバンコクに行くんだけど、ぜひ食事でも」
不思議なことに、訪ねてくるのは比較的社会的信用の高い職業に就く人たちばかりで、日本では個人的に食事をする間柄でもなかった。それでも遠路はるばるやってきて会おうと言ってくれるのは嬉しい。断る理由もなく、私は毎回「ぜひ」と答えた。
当日、待ち合わせ場所で落ち合うと、彼ら・彼女らは旅の高揚感をあえて抑えているように振る舞う。タイ料理店で食事をしたり、屋台のテーブルでビールを傾けながら、日本の近況を聞き、バンコクの事情をひと通り話す。すると皆、そわそわし始め、会話をじわじわと浮ついた方向へと向かわせていく。
私は内心「来たな」と思いながらも、あえてその後の具体的な行動予定に触れず、ビールを追加注文したりする(今考えると、ほとんど嫌がらせのようだ)。
するとどこかのタイミングで、彼ら・彼女らは、もう我慢できないという様子で堰を切ったように話を切り出す。
「はっきり言うけど、これから遊びに行きたい。安心して楽しめる場所に連れて行ってほしい」
その言葉には切羽詰まった響きさえある。
私が「明日も早いので、そろそろ帰りたい」という素振りを見せると、彼ら・彼女らはそれを察し、少し残念そうな表情でトーンを落とす。
「ああ、もちろん。全然大丈夫。自力で楽しむから、でも、あの。店の情報だけでも教えて」
そう口にしたことで、私に対して気まずさを感じるのだろうか。続けて、言い訳めいた言葉が出る。それもまた、いつも同じようなセリフだ。
「普段はこんな夜遊びはしないんだけど」「タイ独特の文化を研究したい」「人は時に解放が必要だ」
そこに各人の語彙や想像力、表現力の個性が滲み出るのが興味深い。しかし、伝えたいこと、すなわち遊びの目的はすべて同じなのだ。艶やかな吸引力というのは、かくも強大である。
そして私はいつも、彼らを適当な場所(すべて合法かつ社会的な常識の範囲内)へと送り出し、「まじめな大人は大変だなあ」などと呟きながら家路につく。
私が世界のどこかの歓楽街を初めて訪れる時は、そこに住む知人と再会した瞬間に「すごいとこ連れてって」と言いたい。刹那の遊びなら、アプローチも工夫したほうが、楽しみは増しそうだ。
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